キャベツ焼
~きっかけの物語~
Prologue

 

ZARD の「負けないで」が大流行していた1993年の4月、東大阪にある近大の学生たちが屯する大学通りの片隅、画用紙に手書きで「キャベツ焼100円」と書いただけの小さなお店から、焦った声が軒を連ねた商店街のビニール屋根に響いていました。
「お父さん、キャベツまだぁ?」
「今切ってる!」
「おかあさん、これ!ネクタイのおにいさんの分5人前あがり!」
「はいよ~!」
10人以上並んだお客さんの行列を横目に、私達親子三人は、汗だくで鉄板と格闘していました。
仕込みをのけても8時間ぶっ通しで1600枚、立ちっぱなしでキャベツと小麦粉とソースにまみれて働き続け、閉店して漸くパイプ椅子に腰かけたときには、全身の痛みで三人共暫く動くこともできませんでした。

「お姉ちゃん、エライ顔してるで」
「ホンマや、エライべっぴんさんやわ」
両親に言われて初めて自分の顔が小麦粉だらけな事に気づく始末です。
三人顔を見合わせて笑いました。
大笑いしました。
泣きながら大笑いしました。
今は一緒に笑えない弟の分まで・・・。
これがド素人の親子三人でキャベツ焼を始めた初日の風景です。

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私は西名阪自動車道の全線開通を目前に控えた1969年の2月、大阪の今里で、空手8段の厳格で怖い父と「大丈夫、大丈夫」が口癖の明るくおおらかな母の間に長女として生まれました。
小学校までは1つ年下の政和と5つ離れた浩宗、三人でよく一緒に遊んでいました。
「おねえちゃん、おかしやさんいってヨウショクヤキたべよ~や~」
という二人の弟を引き連れ、50円玉を握り締めて近所の駄菓子屋に行き、
「おばちゃん洋食焼一枚ちょうだい」
「はいよ~」
キャベツ焼の原型である洋食焼はしっかりボリュームがあり、幼い姉弟が夕食前の小腹を満たす程度なら、三人で一つくらいがちょうどいい量でした。

「じゃんけんで食べる順番決めよか」
「いんじゃんほい」
「姉ちゃんがいっちば~ん♪」
先に食べたいとグズるヒロに
「順番は守らなあかん!小学校行きだしたら先生に怒られるで!」
と人生の先輩面して諭したり、
「そんなとこ持つからソースがこぼれるねん」
と幼い弟の世話を焼く、典型的な下町の仲良し姉弟でした。

しっかり者の政和と違い、チビで甘えたで私の後ろをずっとひっついて回ってたヒロですが、中学に入る頃にはグングン背が伸び始め、あっという間に母親も私も抜かれてしまいました。
「姉ちゃん最近背縮んだんとちゃうか?(笑)」
「縮むかっ!あんたが成長し過ぎやねん。図体ばっかり栄養いって脳みそに栄養いってないんとちゃうか?」
「姉ちゃんのオッパイよりは栄養いってると思うで(笑)」
「あほ~っ!(怒)」。
柔道の特待生として高校へ進学し、二年生になる頃には身長186cm、体重も100kgの立派な巨漢です。
人見知りで外ではおとなしかった私と違い、内外関係なく明るく運動もできて、いつも仲間達の中心にいたヒロは私の自慢の弟でした。

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私が短大を卒業してフリーターをしながら呑気に独身生活を謳歌していたある日、お好み焼き屋のアルバイトが終わって家に帰るとめずらしくヒロがいます。
「あんた部活サボったん?」
「いや、こないだから膝が痛たいねん。整形外科行ってきてんけど、大学病院で精密検査してもらえ言われてん」
「試合近いねんから早よ行ってこい」

この時は、「試合前のハード練習で膝に負担がかかってるんだろう」くらいの軽い気持ちで聞き流していました。
ところが翌々週の金曜日。この日はバイトの送別会があって午後9時頃に帰宅しました。
帰ると玄関にはカギがかかってないのに家の中は真っ暗です。
胸騒ぎがして慌てて台所にいくと、表通りの街灯だけが擦り硝子越しにぼんやり差し込むダイニングテーブルに外出着のままの母が呆然と座っていました。

「電気も点けんとどないしたん?お父さんは?」
自分を落ち着けるように努めて明るく話しかけました。
「お父さんは病院でヒロについとる。ヒロな、骨肉腫ゆう病気で・・・末期でどないもならんて先生に言われてん・・・」。
「どないもならんって?」
「・・・余命半年って」。

泣き伏す母をみてこれは夢じゃないんだなと理解しました。
よく「目の前が真っ暗になる」って言いますが、この時初めて大き過ぎるショックを受けると、比喩じゃなくって本当に目の前が真っ暗になるんだって知りました。

母親にかける言葉も見つからず、自分の心の整理もどこから手をつけていいのか分からず、ただ走馬燈のように、花火大会の帰り道、幼いヒロと繋いだ手の温もりや、欲しかったオモチャを買ってあげた時の笑顔、つまづいて転んだヒロを抱き起して砂を払った手の指先の小さな小さな爪の輪郭まで・・・、自分より小さくて弱かった頃のヒロの姿ばかりが、グルグルと頭の中で堂々巡りしていました。

その後入院に必要な物の準備をして、母親に付き添い病院に行ったはずですが、実は当日それからの記憶が殆どありません。

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この日を境に家族の生活は一変しました。
私は、アルバイトがない時はずっと病室で、買っていったジグソーパズルをヒロと二人でやりながら過ごしました。
抗がん剤治療が始まると全身が青紫色に変色し、髪の毛は抜け、みるみる痩せていきます。
最後の抗がん剤治療が不調に終わった後は、一縷の望みを託して、あそこの水がいいらしいと聞けばその水を飲ませ、どこそこの寺がいいと聞けば行き、まさに藁にも縋る想いで駆けずり回りました。
毎日命の灯が小さくなっていく弟の姿をみている中で、神様に祈っても呪ってもどうにもならない無力感や、「なんでヒロなんや」というやり場のない怒りを「姉ちゃんがしっかりせな!」という一心だけで堪えていました。

暫くして病院で何もできる事がなくなり、家に帰りたいというヒロの希望で自宅療養が始まって一月ほど経ったある日。
その時は母親も夕飯の買い物に出かけ、私とヒロの二人きりでした。
午後四時を過ぎて少しオレンジ色を帯びた柔らかな陽が、レースのカーテン越しにベッドの上まで伸びて、すっかり痩せたヒロの頬を照らしています。

「姉ちゃん・・・」
眠っているものとばかり思っていた私は驚いて、
「どないしたん、どっか痛いんか?」
「いや・・・俺、親孝行なんもできひんかった、先逝くけどごめんな・・・。
姉ちゃんに小っちゃい時『順番は守らなあかん』て怒られたのになぁ」
ヒロはさみしそうに微笑んでいました。
突然の余命宣告から、自分の死や想像のつかない恐怖と正面から向き合い、自分の運命を呑み込んだ上で、残していく家族を思いやる弟の言葉に、私は奥歯を噛みしめて涙を堪える事しかできませんでした。

それから二週間後の朝、ヒロは自宅で私が抱きかかえたまま、私の胸の中で亡くなりました。
最初に心臓が止まり、大きな呼吸を一つしてそのまま・・・・
「戻ってこい!戻ってこい!ヒロっ!順番が違うやろ~!」
どうしようもなく溢れる涙もそのまま、何度も何度も呼びかけましたが、ヒロは帰ってきませんでした。

元々裕福ではなかった上に、治療費などで膨れ上がった借金をかかえ、何とか工面したお金でヒロの葬儀を済ませた後は、本来頑張り屋の父も母も抜け殻のようにすっかり気力を失ってしまいました。
現実を認識しながらも、長女として何とかしなければという思いだけが空回りしていたある日、毎日通る大学通りの一画に「貸店舗」という貼紙がありました。
これを見た瞬間に「父も母も巻き込んで何か商売をしよう!」と決めました。
何をするかも決まっていませんでしたが、家族が何もかも忘れて向き合い一緒に頑張れるものをつくるって、この時決めたんです。
そしてその日のうちに両親と不動産屋に行き、店舗の中を見たときに、当時もう廃れてどこにもなかったあの「洋食焼」の事がふと頭に浮かびました。
母親のアイデアで「キャベツ焼」と名を変え屋台を始めることに決定。
その日のうちに不動産屋と契約し、翌日から道具屋筋を回って材料を買い集め、なんと契約をした三日後に冒頭の開店日を迎えます。
今思えばよくそんな無茶をやったものだと思いますが、怖いもの知らずの素人だったからこそできたのでしょうね。
もしかしたらヒロが導いてくれたのかもしれません(笑)

「大阪の海は悲しい色やね、悲しみをみんなここに捨てにくるから」って、歌があるけれど、私ら家族はこの悲しみを捨てるわけに行かへんから腹の底に呑み込んで、開店してからの山も谷も歯を食いしばって乗り越えました。
というよりは涙を汗に変え必死で体を動かすことで悲しみを心の底の方に沈めたんだと思います。

お陰様で今では関西圏を中心に10店舗以上を展開し、テレビ番組などからもお声がかかるようになりました。
けっしてお金持ちではありませんが、欲しい物は何でも買える今になって思います。
本当に必要な物は、50円玉を握りしめて駄菓子屋に行ってたあの頃全部持っていたって。
全ての物を引き換えにしても弟は帰ってきませんが、私が弟の分までしっかり親孝行して、ガッツリ人生を全うしたら、きっと弟がお迎えに来てくれるはずです♪
その時いっぱい自慢話ができるように私は精一杯人生を楽しみます♪
家族の危機を救ってくれたキャベツ焼もじゃんじゃん焼きます♪
私が焼くキャベツ焼が世界一美味しいはずです。
だって一枚約230kcalの内、200kcalは愛でできていますから♪